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仙台高等裁判所秋田支部 昭和45年(う)20号 判決

控訴人・検察官 控訴審検察官 穴沢定志

被告人 三上富夫

弁護人 五十嵐芳男

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は仙台高等検察庁秋田支部検察官検事穴沢定志が差し出した青森地方検察庁弘前支部検事有安俊夫作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これをここに引用し、これに対して当裁判所は次のように判断する。

所論は、原判決は本件公訴事実に対し、被害者三上弘の受傷は、結局被告人運転の自動車との衝突により惹起されたものとは認め難いから犯罪の証明なしとして無罪の言渡をした。しかし、原審において取り調べた証拠によれば、三上弘の受傷の原因は本件公訴事実のとおり同人の左大腿部に被告人車の右後車輪泥除け前部が衝突したことにあること明らかであるから、原判決はこの点で証拠の価値判断を誤り事実を誤認したもので判決に影響を及ぼすこと明らかであるというのである。

本件公訴事実は、

「被告人は自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四三年五月二七日午後六時四五分ころ小型四輪貨物自動車を運転し、青森県中津軽郡岩木町大字宮地字宮本一五九番地の一、三上専司方付近道路を北方へ向けて進行し、同人宅前で一旦停止したのであるが、たまたま前方から歩行して来た三上弘(当時二七才)と口論となつたうえ、発進するに際し、右道路幅員は約二・一メートルの狭隘にして自車の右側は川ぶちとなつており、川ぶちと自車右側部との間隔は約四〇センチメートルしかなく、同人は自車の右側運転席の右方すなわち川ぶちとの間に立つており、同人と車体との間隔は極めて接近していたうえ、同人は自車の荷台に手をかけていたのであるから、このような場合自動車運転者としては漫然そのまま発進するときは、同人に車体を接触させて川ぶちから転落させるおそれがあるので同人を安全な場所へ避譲させるか、または同人の動静を注意しつつ低速で進行し、右のような事故の発生を未然に防止すべき注意義務があるのに、同人の動静を注視することなく漫然と時速約七キロメートルの速度で発進進行した過失により、同人の左足に自車の右後車輪泥除け前部を衝突させて同人を右側の川に転落させ、よつて右衝突により同人に対し加療約一年二か月を要する左大腿骨完全骨折の傷害を負わせた」というのであるところ、原判決はこのうち、三上弘の受傷の原因を除き、ほぼ公訴事実と同様の外形的事実を認めながら、右受傷が被告人車との衝突によつて生じたものとは認め難いという理由で無罪を言い渡したこと所論のとおりである。ところで、原判決の理由とするところは、被告人車の発進と本件受傷との間には法律上因果関係を欠くという趣旨であると解される。

そこでまず受傷の原因を除いて本件事故発生の経緯をみるに、原判決挙示の各証拠(原判決書二枚目裏一二行目ないし三枚目五行目に記載されたもの)に当裁判所の検証調書、当審における証人三上弘の供述を加えて検討すると、

(一)  昭和四五年五月二七日午後六時四〇分ころ、被告人は小型四輪貨物自動車を運転して本件公訴事実記載の本件道路を南から北へ向つて進行中、前方に自転車を押しながら姉の柴田マヨと共に対進歩行中の三上弘の姿を認めたのであるが、本件道路が二・一ないし二・七メートル程度の狭い道路であるため、三上専司宅前付近でいつたん停車し、同人らをやり過ごそうとしたところ、三上弘は被告人の姿を見付けて押していた自転車を傍らの土手状の斜面に倒しておいたうえ、停車中の被告人車の右側にまわり運転席右側ドアの窓枠付近に手をかけて、被告人に対し、あれこれいんねんをつけ、さらに水田の引水のことで文句をつけたりしたので被告人はこれに立腹しつつも適当にあしらつていたが、同人が多少酒気を帯びていたので同人に対し「用があるなら家に来い。」といつたところ、同人は右手を振つて「いかなが(行けの意)。」と被告人に発進を促す合図をした。そこで被告人は右合図を機に発進すべく三上弘を見たところ、同人の身体と被告人車との間は約二〇センチメートル離れていたので、バツクミラーをみながら時速約七キロメートルの低速で発進し、自車荷台中央部付近が同人の傍らを通過するまで同人の動静を注視したのみでそのまま走り去つたこと、(二)他方三上弘は発進を促したのち、被告人車にかけていた手をはなし、道路右側に佇立して被告人の進行を見守つていたが、被告人車が自己の前を通過し終らぬうち、再び被告人車を停車させようと思い、被告人車の進行方向に二、三歩足を踏み出したところ、(原判決の認定は必ずしも明瞭ではないが、同人は被告人車が前を通過し終るまで道路右端に佇立していた如く解せられるのである、しかし原審および当審における証人三上弘の証言によると前示のように認められる。)ごつんという音がして急に足の力が抜けるように足元からへたへたとくずれ、道路右側にある約三〇度位下り勾配の土手に転落してその下を流れる川に落ちこんだこと、(三)その際同人は加療約一年二月を要する左大腿骨完全骨折の傷害を負つたこと

がそれぞれ認められる。

次に三上弘の受傷の原因についてみるに、前掲各証拠によれば、なるほど道路右側の土手には一部玉石をうめこんだコンクリート固めの部分が存すること原判決のいうとおりであるが、三上弘の転落地点が右コンクリート状の部分であつたとする証拠は原判決挙示の証拠中被告人の供述(調書を含む)のみであつて、他の証拠、ことに事故後三上弘を救助した関係者の供述等を綜合すると、三上弘の転落地点は右コンクリート部分より北方の雑草が繁茂している土手であることが認められるから同人の受傷が転落により生じたものとは認めえないし、他方原審証人川嶋康司の供述及び原審検証調書等によると、三上弘の受傷部位は左足蹠部の上方四五センチないし六五センチの間で大腿部外側から直接強力な打撃が加わつたときに生ずるものと認められ、右受傷を生ずる蓋然性の高いものは地上約六〇センチメートルの高さにある被告人車右後車輪泥除け前部付近と認められるところ、右泥除けは被告人車の外側部分よりも約五・五センチメートル車体の内側に設置されているので、三上弘が被告人車の通過し終るまで、道路右端に佇立していたとする限り右泥除けによつて本件受傷が生じたとは認め難いけれども、前認定のように三上弘は最後まで道路端に佇立していたわけでなく、被告人車が自己の前を通過する際、被告人車の進行方向に向つて足を二、三歩踏み出し、その直後足元からくずれるように右側土手に転落したと認められる以上、三上弘の踏み出した左足が被告人車の車体の内側に入りこみ、前示泥除け前部と衝突した結果、本件受傷に至つたものと認めるのが相当である。

してみると、被告人車の発進の事実と三上弘の本件受傷との間には因果関係の存すること明らかで、右と異なりこれを否定した原判決は結局事実を誤認したといわなければならない。

進んで本件における被告人の発進に際する注意義務懈怠の有無について考えるに、一般に自動車を発進させる際、周囲に歩行者があつてこれらの動静によつては衝突ないし接触の危険があると判断しうる状況においては自動車運転者たる者は歩行者の危険回避能力に応じ、あらかじめ安全な場所に避讓させる等の手段をとることにより危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務あることはいうをまたないところである。

しかし、自動車周囲にいる歩行者があらかじめ発進の事実を予見し、これを促した場合には、その者の歩行の姿勢、態度その他外部から観察できる徴表に照らし、自動車との接触ないし衝突を惹起するような異常行動にでることが予見される特段の事情があれば格別、そうでない限り、一応その者において自己の安全を維持するため行動を統制するものと信頼して通常の発進をすれば足り、歩行者においてことさら自動車に接近したりその進行を妨害する等異常な挙動に出ることまで予見してあらかじめこれらを避讓させる業務上の注意義務はないものと解するのが相当である。

これを本件についてみるに、被告人車の発進の経緯は前記(一)(二)認定のとおり、被告人は自車運転席右方路上に立つていた三上弘の発進を促す合図により自車を発進させたもので、本件道路は狭隘であつたとはいえ、被告人車の車体と三上弘の身体とは約二〇センチメートルの間隔があつて、発進によつてかならずしも接触ないし衝突の危険は予想されないばかりか、道路の右側も断崖のように避譲に適しない箇所とは異なり、約三〇度の下り勾配を有する土手状の斜面で、必要なときは右部分に片足もしくは両足をかけて避譲することも容易に可能であつたと認められる状況にあり、当時三上弘は酒気を帯びていたとはいうものの、その酩酊度はさしたるものでなくその危険認識能力および回避能力において一般人より劣るとは考えられないし、かつ三上弘は被告人車の傍らで被告人にいんねんをつけていたこと前示のとおりであるが、発進を促す合図を送つた際には、被告人に文句をつけることをあきらめ、被告人車から手を離し、佇立して被告人車の発進を見送る態勢に入つたと認むべく、以上のような状況に照らせば、三上弘が発進後急に被告人車に追いすがるような異常行動に出る等被告人車と衝突の危険が予見される特段の状況があつたとは認めえない。

したがつて、右のような事情のもとでは、被告人に発進後の三上弘の異常行動を予見してあらかじめ発進前同人を避譲させるべき業務上の注意義務はないから、被告人が同人の合図を信頼し、発進前同人と自車との接触等の危険がないことを確認し、バツクミラーを見ながら時速約七キロメートルの低速で発進し(道路が狭隘であるからそもそも無謀な発進はできない)、自車荷台中央付近が同人の傍らを通過するまで同人の動静を注視しただけで自車が三上弘の傍らを通過し終るまで同人の動静ないし自車右側方の注視を続けなかつたとしても、なんら注意義務の違反はないものというべく、それ故本件事故の結果について被告人の過失責任を認めることはできない。

そうすると、本件公訴事実については犯罪の証明がなかつたことに帰するが、原判決は右と理由を異にするが結論において同一であるから、これを維持すべく、前示事実誤認は判決に影響を及ぼさないから論旨は理由がない。

以上の次第で、本件控訴は理由がないから刑訴法三九六条により主文のとおり判決する。

(以下省略)

(裁判長裁判官 恒次重義 裁判官 小泉祐康 裁判官 川端敬治)

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